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愛国心とはなんぞや?

  • jeremmiemoonchild
  • 2017年6月2日
  • 読了時間: 8分

少し前まで森友学園、最近は加計学園の疑惑で国会やメディアは賑わっている。この国会における「疑惑の学園」シリーズは、「もり」とか「かけ」とか、ソバのメニューのように次から次へと出てくるようだ。次に「ざる」とか、「きつね」は出てこないだろうが、もし、「天」〇学園が出てきたらお笑いである。

その森友学園で、愛国精神の教育なるものがなされていることについても報じられた。戦前の教育勅語を大声で暗唱している幼児のビデオがテレビやネットで流れた。政府の回答として、教育勅語には大事な要素も謡われているとか答える大臣や、必ずしも教育現場で使用するのを禁ずるものではないと答える官房長官がいた。

その少し前だったか、和菓子屋・パン屋問題があった。文部科学省により、道徳の教科書の中で出てくるお店をパン屋ではなく、和菓子屋に書き換えさせられたというお話し。日本文化に親しむ教育にしたいそうな。

それと、中学の英語の教科書には、私のような米国MBAホルダーにもわからない単語が出てくることを、夕食後に勉強している次女から学んだ。Rickshaw という単語は見たこともない。人力車のことらしい。そもそも日本語のジンリキシャの略だそうだ。Pagoda というのも知らなかった。仏塔という意味で、Five Story Pagoda =五重塔に使う。ようするに、英語で観光案内をし、日本文化を説明できるようにしたいらしい。

たしか、安倍ちゃんだったと思うが、「自分の生まれた国を愛する教育をするのは当たり前」と言っていたと思う。

私は国を愛するという言葉の意味はよくわからない。国のために死す、ということであれば真っ平ごめんである。それでも、「好きになる」ということならわかるので、同意義だという前提で話を進める。

自分の生まれた国を好きになるのは当たり前なのでしょうか?

似たような話で、親に感謝する、親を尊敬する、というのもある。教育勅語的にはこれも当たり前のことのようである。

そうなのか?

- 生んで育ててくれてありがとう、と思えない親の場合はどうすればよいのか?

- どう見ても尊敬できない親の場合はどうすればよいのか?

世の中を見渡すと、そんな親はいくらでもいる。授業参観に行ってわかるのは、バカ親ばっかりということだったりする。廊下で大声で話をしている、参観中に私語を慎まない、などなど、何しに参観日に来たのかを疑うさま。また、ご多分に漏れず新聞に載るような事件を見れば、親の資格なしという例は多々腐るほどある。

つまり、なにかを当たり前というのなら、むしろ親の方が、

- 子どもに感謝されることをする

- 子どもに尊敬される人間たれ

と努力することではなかろうか。感謝とか、尊敬とかの感情は自然に湧くものである。強制されたり、努力したりしても湧いてこない。できるのは、湧いたふりだけである。ウソは一番よくない。

この例でわかるように、一国の首相が国を好きになる教育をするのが当たり前、と思っているのは甚だ傲慢だ。それは、どこぞの国の独裁者、将軍様とまったく変わりない論理展開である。

子どもであろうが大人であろうが、自分の国であろうと他の国であろうと、その国の良いところは好きだし、悪いところは好きではない。全体として好きかどうかは、良いところが多ければ好きと言えるし、悪いところが目立てば嫌いだろう。ムチャクチャな独裁国家や戦争ばかりしている国に生まれた場合、自分の国はおよそ嫌いだと思うのは実に健全な思考である。

自由主義の原則として、何が良いか、悪いかは、個人によって異なる。だが、その自由を侵すのがもっとも評判が悪いことを政治家は知るべきである。

また、平和、安全などは古今東西変わらぬ価値のようである。

実はこれらにおいて、日本は卓越している。70年間戦争に巻き込まれていない。江戸時代の300年間に大きな国内の争いはない。鎖国だから、他国とは戦争どころか関わりすらない。国際比較すると、大都市東京においても異例の低犯罪率。このような具体的な点を挙げて、我が国を自負するのは健全であるし、国際社会でもっとアピールすべきだ。

国民から選ばれた政治家は、国民から好かれるような国造りを真摯に努力すべきであり、それが唯一国民が国を好きになる道である。内容や実態がないのに結果だけを求めてはいけない。テストでカンニングをするのと大差ない。そもそも、因果の法則は逆向きには働かない。

伝統の問題がある。

日本人が日本の伝統を守らずに誰が守るのか、というのである。だから、パン屋ではなく、和菓子屋に、ピアノではなく、琴に親しませるのだと。もし、「親しませなければならない」ような文化があったとすると、残念ながらもうすでにすたれた文化である。現実生活の中で、継承されなくなった、あるいはそうなりつつある文化である。

それはもう、歴史で扱えばよい。不自然に道徳の教科書に載せても、若者に笑われるだけだ。もし、本気で国家が子供たちに、「古風な日本文化は良いと言う」ことを強要するのなら、時の政権は本気で嫌われるだろう。民主国家であり続ける限りは。

そもそも、政府が常に第一優先と考えている経済成長を促すということは、生活や仕事の仕方に新しい文化を取り入れるということであり、すなわち伝統を捨てるということに近い。伝統とは古くからのやり方を変えずに続けるということで、これでは経済成長は起きない。

一方の経済政策で、「伝統を捨てろ」とやり、一方の教育で「伝統が大事だ」とはどういうことだろう?

畳を例にとろう。

日本人にとって、畳は大事だ。畳の匂いは安心する。だが、どういうわけか、家を新築したり、マンションを買うときは、畳の部屋はあっても一つだけである。しかも、その畳たるや本物ではなく、薄っぺらな作りの偽物、タタミ・ルームだ。本当に日本人は畳が好きなのか?好きならなぜ全部屋を畳にしないのか?

本当のことを言うと、日本人はもう畳は好きではないのだ。畳で生活するということは、床に座ってすべての生活をするということで、よっこらしょと座ってあぐらを掻いたりするが、落ち着かないし安定しない。ちゃぶ台で食事となると前傾姿勢を保つのに苦労し、背中や腰が痛む。最近の若者となると、床の上では西洋人のように長い足をどうしてよいかわからない。結局、イスやソファの方がずっとリラックスできるのである。

今の日本人が畳を楽しめるのは、ゴロゴロ寝そべる時だけである。それでは建設的・積極的な活動は何一つできない。だから、あっても一室なのだ。

こういうことを言うと、いやいや、畳や和菓子や琴というモノのことではなくて、本当はもっと大事な「日本人の心」を大事にしたいのだ、と来る。

- それはいったい何なのか?

- もう少し詳細に語れる実態はあるものなのか?

ある。実は私も日本人の謙虚さや協調性は好きだ。バカなアメリカ人には愛想が尽きる。(ちなみにアメリカ人でも賢い人は協調性が高い。)それと、江戸時代の寺子屋の影響であろうか、文盲率も低く教育水準の底辺が高いのも安心できる。

そういうことなのか?

それでよいような気がする。ようするに、教養があり、協調性の高い人間たれ、ということだ。別に日本人に限った話ではない。そのレベルから見渡せば、取って付けた和菓子、琴、人力車、五重塔など茶番であり、Superficial =軽薄であり、教育を司る省庁の精神が内側から腐っており、その資格がないことを露呈しているのみである。

このテキトーさは、過去の文化を営んでいた人々に対し、むしろ失礼な態度と映るのは私だけであろうか?

ジェレミー・ムーンチャイルド

追記、

とはいえ、伝統のある文化に畏敬の念を抱くことがある。

これをもって、わが文化は立派なりというのは短絡的だ。なぜ畏敬の念が湧くのかを考えると、産業革命以前の生活様式はサステナブルだったからだと思う。貧しくても、不便でも、そのやり方を続けることが永遠にできるというのは、我々現代人には脅威的なのだ。

人間の心というのはよくできている。今の生活や仕事の仕方が、サステナブルでないということを感じる力がある。漠然とした不安を抱く。夏に高速道路をすっとばし、景観の良いレストランで冷房の効いた部屋で、美味しい食事をしても、こんなこといつまでできるんだ?という疑念が生じる。

同じ電気を使うのでも、自分で取り付けた太陽光パネルから発電されたものだと妙に嬉しい。これは自然に対して畏敬の念が湧くのと同じである。自然はサステナブルであり、人間の心はそれを求める。

上の画像は、たまたまネットから拾ったもので、すこし私自身の本文とは異なる。これについても言及しておこう。

「高齢者に尊敬と感謝」というのは正しいのか?

ただしくない。上に書いた通り、高齢者でも尊敬に値する人とそうでない人がいる。自分より若くとも、それらに値する人がいる。

「高齢者に優しく」はどうか?

これも実はおかしい。年齢、国籍を問わず、すべての人に優しく接するべきだ。そもそも、子どもに対し高齢者に尊敬、感謝、親切になどというのは、自分にそうしろと大人が言っているわけで、チャンチャラおかしい。自画自賛を他人にまで本気で強制するのはみっともない。

少し別の話題だが、最近、「任侠団体山口組」というのができたらしい。任侠とはなにか?

ウィキで調べると、こうある。

「任侠 - 困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神や人の性質を指す語」

良い言葉のようである。ヤクザも、ISも、北朝鮮も、オウムも、どんな悪質な側面をもっていようと、団体を維持するものは、なにかそこに意義を求める。良い面もあるぞ、いやそもそも良いことをしているのだ、と信じたいという、ある意味素直な心がある。一応、人間だからそうなる。

したがって、部分的に良い教義があるという程度のことで、教義全体に肯定的な印象を持つのは完全に間違いである。全体として整合性を保っているのか、真の目的は何か、ということを徹底的に精査する必要がある。整合性がなければ、部分的な善はウソ、欺瞞なのだ。

防衛庁長官の教育勅語に対する発言は、その精査を開示していない。というか、精査していないということを開示している。

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