豊田真由子(元)衆院議員の罵言と言語化に関する考察。
- jeremmiemoonchild
- 2017年6月26日
- 読了時間: 8分
安倍一強政権にとっての新たな受難である。

東大―厚生労働省-ハーバード の経歴を持つ女史のあられもない姿が録音・公開された。世は騒然としている、
- これはもう人間じゃない、いやいや、 日常的に見当たること。
- 議員辞職せよ、いやいや、議員はみんな、そんなもの。
- 女性ですよ、・・・、いやいや、キレれば誰でも同じ。
- 完全な精神病だろう、いやいや、ヒステリー。
などなど・・・。ちまたでは、野々村議員の号泣に匹敵、あるいは凌駕と言われている。その共通点は、理性が飛んだ状態の露呈であろうか。なんとか理性で生きている下々のものにとって、それを失った人間は蔑みの対象でありながら、心の隅では憧れもある。何物にも縛られない状態になってみたい。
ここまでニュース性が高まった最大の理由は、常軌を逸した状況の録音があり、それがネットやニュースで再生されたからに他ならない。「議員が罵言を浴びせた。」と書かれても、なかなかこの状況までは想像すらできない。
考えてみると、米国での警官による黒人射殺、航空会社による客の強制機外排除、などなどスマホの普及により事件現場の動画が存在するようになり、その説得力と伝搬性に圧倒された。今回の音声は、それに匹敵する。
これらの動画や音声は、その非を証明するのに言語化が不要であり、被害者の立場にすぐに自分の身を置くことができ共感を呼ぶ。
また、事実認定が不要といえるほど早い。
殺人事件でも、被疑者が「やってない」と言えば、検察側は死因は体内に残っていた拳銃の玉、それはこの拳銃から発砲されたもの、この拳銃には被疑者の指紋があり、被疑者が何日にどこで買ったもの、などと事実を列挙して証明しなくてはならない。
撃っている動画があれば、一目瞭然というわけだ。(しかし、言語化されたものであれば、いかなる文書が出て来ようとも、「言い逃れすればよい」という姿勢が最近目立っているのは困りものだ。)
ボイスレコーダーは別として、そもそもスマホの動画機能はそのようなことを目的としたわけではない。どちらかというと、「楽しいこと」の記念動画を撮るために作られたのだが、「たまたま」事件現場にあったので利用されたわけだ。
そして、弱い者が守られた今回は有用だったけど、「何か釈然としない」感じがするのは私だけではないだろう。
それは何なのか?
人の非を責めるには格好の道具だ。しかし、いつかは人間は和解を求める。最後には、忘れることも重要かもしれない。例えば、家族・友人感の関係改善に使える技術かどうかを考えてみよう。
ゴチャゴチャと不平を言わず、
「コレ、1週間前の録画です、反省してください。」と自分の行動を見せられたらどうなのか?
「君もこんなのあるよ、反省してください。」と言われると、素直にお互いに自身を反省しあう時代が来るのであろうか?
やはり何かが違う。文句は言うこと自体に意味があることがよくわかる。言語化して相手にぶつけ、その反応を聞きながらやり取りを続け、どこかにたどり着く。無かったことにして相手を信じる、そうでなくては生きていけない。
言語化しないときに起きるもう一つの問題は、「何が悪い、」が規定されないと、「誰が悪い、」に終始してしまうことである。政治家というものは、そもそも選挙という「誰」を選ぶものであるから、私もタイトルを変更するのが面倒だし、期待を込めて「豊田真由子(元)衆議院議員」としてしまった。今回はそれでもよいだろう。
しかしながら、本来ものごとは、「罪を憎んで人を憎まず」であるべきである。人は誰をも過ちを犯す。問題が起きないようにすればよいのであって、憎悪や自己嫌悪が蔓延ってもしかたがない。私が指摘するまでもないが、ネット上で「死ね!」と叫びあってもゆたかな社会にはならない。
豊田真由子氏についても、少しでも本当に世のため人のために政治活動をするつもりがあったのであれば、自身の行動がそれと解離してしまった理由を深く掘り下げ、今後の人生の糧にしてもらいたい。それができる方かどうかは定かではないので、税金から給料をもらうことはできるだけ早くやめてもらいたい。
それでは、何を言語化し、何を反省すべきなのか?ということになるが、本当のところは本人にしかわからない。そもそもどんな問題があったのかというと、報道によれば些細なことである。
何十人かのバースデー・カードの情報を間違えて送付した、とかその程度のことである。例えば、人が亡くなったのであれば取り返しのつかない問題だが、「たかが」バースデー・カード問題である。仮に、彼女の政治活動を立派なものだと考える支援者(支援者とはそういうものだと思いたい・・・。)にとって、宛名の誤ったバースデー・カードが届いたらどう思うであろうか?
私であれば、「忙しかったのだろう。」で忘れる。もっと大きな本業を評価しているのであれば、どうでもよい。
そのどうでもよいことに対して、本人は盛んに以下を繰り返す、本音であろう。
「私の心を傷つけた。」
些細な問題により、自身の心が大きく傷つけられたと感じたのはなぜか?
その後の異常行動を言語化、反省するにあたり最大の焦点であると思う。単に、今後は人を「この、ハゲ~!」と呼ばないようにすればよいということではないだろう。
ジェレミー・ムーンチャイルド
追記、
私は薬物療法中心の精神医療を批判している者だが、豊田真由子氏は精神病とはいえないと思う。
精力的に場に応じた社会生活を送っており、自意識が解離しているわけでもない。製薬会社はこれを機に、感情を制御できないのは発達障害であるとか、病気喧伝に利用するかもしれないが。
それは気を付けた方が良い。薬でおとなしくさせることはできるが、それは本人は具合が悪くなっているだけで、本質的な意味で他者の気持ちを理解して、建設的に行動できるようになるわけではない。そんな薬があるわけがない。
実は、トラブル時というのはチャンスである。
商社にいた時に覚えたことだ。物を届けるという約束を果たせないことがある。自分の発注ミスの場合もあるし、メーカーや運送会社が原因の場合もあるし、実際には誰かがすでに受け取ったのにモノが現場で混乱しているだけの場合もある。
だが、そのような時の対応にこそ、顧客との信頼関係構築の絶好の機会である。まずは謝罪し、相手の状況を聞き、最大限できることを提示することにより、誠意を持った人間であることを認めてもらえるのだ。豊田真由子氏はそれを知らないように思う。すべては思うように行ってこそカッコ良いと。それを崩すとは何ごとかと。
かりにバースデー・カード問題が政治家にとって重要な問題であったと仮定すると、問題が生じたときに冷静になる最大の手段は、問題解決に集中することである。豊田真由子氏については、おそらく「仕事の丸投げ」以外の仕方を知らない方だと、想像できる。
① 事実確認:いくつの、どのようなバースデー・カードの誤記があったのか?
② 原因究明:誤記はどのように起きてしまったか?
③ 対策:誤送付してしまった相手に、謝罪、訂正など。
④ 再発防止:バースデー・カード製作方法の改善。
上記のために、情報収集や立案に集中すべきである。問題が解決には向かっていないことを脳のどこかは知っていると、アタマの中で不安は膨れ上がり、無用な行為はエスカレートするのである。
問題解決に集中すること、これは訓練であり、薬を飲んでもできるようにはならない。
追記、
<心が傷ついた = 私は被害者である = 私の主張は正当性がある>
これはどうも、ちまたに溢れる現象のようである。仕事上、家庭内、ネット上問わず、あらゆる場面で遭遇できる。だが、多くの場合誤った認識の可能性がある。
私は認知行動療法の積極的な支持者ではない。
だが、考え方が感受性を左右するということは、正しい。もし、起きた現象の大きさに対して、不必要に強い感情的な反応が見られたなら、それはちっとも正当な感情でもなく、それに基づいた主張もおそらく正当ではない。単純に、「自分の考えや、行動様式が未熟である可能性」がある。
冷静さを失っていたら、これをまず自問する価値は、常に十分にある。
怒りを露わにして当然の状況でも、その状況に対して「悲しみ」を感じることが、人間をよく理解した者ならできる。問題は対処はしなくてはならない。状況を是正・改善する行動は取らなくてはならない。だが、怒りはまったく不要だ。
追記、
3か月ぶりに豊田真由子氏が登場し、会見を行った。
私はこのような人物が、何を反省できるのか、について非常に興味があった。普通に考えて、反省すべき内容は多いはずだ。もちろん、人間として、である。
愉快なものとは思えなかったので、楽しい家族の夕食を優先し、一部しか見てはいない。人に迷惑をかけたことに対しての謝罪があり、頭を下げてはいたようだ。だが、それは表層の事象である。なぜそのようなことが起きたのか、という原因についての把握は一切見当たらない。
会見前日の独占インタビューではこう答えていたようだ。
「どうかしていた。」
これはいったい、どういう意味だろう?
- 本来の自分ではない、ということなのか?
- 誰でも感情的になることはある、許してチョーだい、ということなのか?
- 単純に、理由がわからない、ということなのか?
この方の問題は、自分より立場の弱い人にどう接するべきか?という問題である。そのような問題として、自身の中で検討された形跡はない。答えを言ってしまえばこれだけのことだ。
「自分より立場の弱い人には特に、優しく接します。そのような心を持てるように努力します。」
このような心を持っていなかったのが原因であり、そのことに気付いていない現在も、そのような心は持ってはいない。すなわち、何も反省をできない人物であったと思う。
絶好の機会ですら、反省をできない人がいるということは、極めて残念、無念である。
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