反精神医療って、どうして品性がないの?
- jeremmiemoonchild
- 2017年7月3日
- 読了時間: 11分
反精神医療というのは、品性を失いがちです。
「反精神医療」にしても、「反薬物療法」にしても、毒々しい漢字が並んでいるように思えます。なんにせよ、反対の「反」というのはそういう感じがしますし、その後の四文字もあまり見たくない文字、目を背けたくなるオーラがあります。
漢字の印象は別として、品性を失うと、説得力を失います。永遠に社会の中心、メジャーにはなれません。目的はけっして実現しないのです。
私自身も自戒を込めて、なぜ品性を失いがちかを考えましょう。
① サイエントロジーの存在
反精神医療をネットで検索していると、「市民の人権擁護の会」というものに出くわします。薬物療法の危険性などを訴えている点では妥当性がありますし、資金源を持っていますのでビデオなども用意しています。しかしながら、この会はサイエントロジーというアメリカの新興宗教団体の下部組織です。創始者が精神医療を嫌いだったので、活動を活発化させたものと思われます。
サイエントロジーは宗教であり、その教義はまったくもって科学的ではありません。反精神医療は別組織に置いていますが、どうしても本体の非科学性が主張の科学的信頼性を落としてしまいます。
ロバート・ウィタカーは、サイエントロジーがその目的とは逆に、反精神医療の信頼性を損ない、結果的に薬物療法の推進に加担してしまったと書いています。精神医療に疑問を呈すると、「非科学的な宗教団体と同じことを言っている、」と反論されてしまうわけです。
ある方が、私とサイエントロジーの関係について尋ねられましたので、一応書いておきます。私はいかなる宗教にもそれほど興味はなく、いかなる宗教団体やその下部組織と接点はありません。
② 被害者は脳の機能に障害がある
事実を列挙したり、それをもとに正当な論理を展開するには、注意力、記憶力、思考力、忍耐が必要です。残念ながら、向精神薬に侵された脳はこれらの機能が、大なり小なり抑制されています。私自身がそうなので、誹謗中傷しているわけではありません。
また、被害者は孤独に陥っていることがほとんどです。孤独な人間は、コミュニケーション上のバランスを崩しがちです。このようなことを言うと、ネットで不平を漏らす権利もないのか、と思われるかもしれません。
これらの事実が、ネット上の罵詈雑言に繋がってしまっている可能性は十分にあります。これらは、自分たちの首を絞める行為ですから、自制・反省を繰り返すしかないでしょう。
③ 医師の場合、収入が絶たれる。
ちなみに罵詈雑言の代表格である内海聡氏は、精神医療の被害者ではありません。
内科医で、精神科医から送り込まれる患者の状態を見て疑問を持ち、今の活動に至ったと思います。フェイスブックやツイッターで炎上商法を繰り返すことが、ご自身の活動や本の売り上げに効果的であることを学んでしまったのだと思います。
精神科医であれば、薬物療法を否定して勤務できる精神科は少ないでしょう。
収入を得るために、告発本を売るだけでなく、どういうわけか高額サプリメントや、高額代替医療を始める場合が多いです。NHKで宣伝された、うつ磁気刺激治療(TMS)などを行っているところもあります。それらの効能を本当に信じているのかどうか、私は疑問です。治療実績が輝かしい者であれば、論文(ペーパー)を発表し、アカデミックな世界でも認知を得る努力をしてもらいたいものです。
ドクターというものは、論文を書くくらいの訓練は受けていて当然です。
④ 相手が強い
どのような問題でも、反対している相手が圧倒的に強い場合、品性を失う場合が多いようです。
自分の正当性を信じる気持ちが強ければ強いほど、そしてそれを阻む力が強ければ強いほど、無力感とこの誘惑にかられるようです。
精神医療とは、アメリカの精神医学会、国際巨大資本である製薬会社、FDA、厚生労働省、日本の医師会、精神病院・精神科などの、あらゆる段階における権威、資本、利権により、がんじがらめに固められた虚構モデルといってよいでしょう。本来被害者であるはずの患者家族会までもが擁護しているケースも多く、それこそ宗教教義のごとく根を張っています。
なかなか、太刀打ちできるものではありません。つい、キャイ~ン、キャイ~ンと後ずさりしながら遠吠えもしたくなるものです。
弱い者の味方、頼みの綱のメディアも問題の大きさに応じた行動を取っていません。
これはなぜなのでしょうか?メディアを完全に抑えるほどの資本力が製薬会社にあるとも思えません。私はむしろ、メディアにおいて問題の大きさが認識されていないからではないかと思います。特殊なヒドイ例は時々報道されますが、それは「特殊な事件」に過ぎません。多くの良心的な医師においてまで、悲惨の例が多発していると、一般化して推察・理解するにいたっていないのです。
その理由の一つとして、問題を提起している人たちの品性が、理解を妨げているのかもしれません。
ジェレミー・ムーンチャイルド
追記、
それでは、品性を損なうと、なぜ説得力を失うのかを考えよう。
今、大いに品性を損なってる方がいる。こちらが若かりし頃の、和服の似合う松居一代さんである。私も若かりし頃、親に隠れて夜に11PMを覗き見たものだ。

父は、「新しい技術は導入されてから10年は安定しない。だからカラーテレビは買わない。」と威張っていた。私は「単にケチだ」と思っていた・・・。ゆえに、私の見ていた彼女も白黒画像だったかもしれない。
今、彼女がどのような情報発信をされているのかについては、敢えて触れない。
皆さんご存知の通りである。ちまたには、豊田真由子(元)衆議院議員の場合と同様に、精神病との噂が絶えない。私はこちら(松居さん)の場合も、ぜんぜんそうは思わない。目的は定かではないが、ご本人は世の中を引っ掻き回すことを楽しまれているように感じる。間違っているかもしれない。
表面上の目的は、夫への報復のようである。私は、これはファイザーの宣伝ではないか?などと勘ぐっている。薬の名前と容量が場違いに現れており、妙に頭に残るからだ。これも、間違っているかもしれない。政治ネタが続いた文春の新しいキャンペーン方法とも取れる。
あるいは、これらすべての利害関係が合わさった恐怖のコラボレーションかもしれない。
いずれにしても、あさましいといえるほど品が悪い。
夫への批判など誰にも受け入れられていない。あ~、だからファイザーの宣伝説を私は感じたのだ。
品が悪いということは、まったくもってそんな人と関わりたくない、ということだ。
品が悪いということは、そんな姿にはなりたくない、ということだ。
品が悪いということは、感情に任せて誇大なことを言っているかもしれない、ということだ。
品が悪いということは、サステナブルな関係を社会と築こうとしていない、ということだ。
品が悪いということは、他者の気持ちを重んじてはいない、ということだ。
自戒も込めて、厳に慎まなくてはならない。
追記、
SNSというツールについて加筆する。
社内のEメールですら、荒れることがある。多くの場合、相手に協力を要請しているつもりが、一方的な批判になり、そこに嫌みが存分に含まれたりし、結果的に協力体制を整えるのと正反対の人間関係を構築してしまう。
問題の本質は、PCに熱中するあまり、独り言なのか、会話なのかを忘れることによる。残念ながら、人は誰しも時に人には言えないようなことを想像し、また考えている。ハッキリ言って、ソーユーことを常に考えているといっても過言ではない。逆にそれをしないで、意識下に抑圧すると、かえって無防備で思いもしないときに爆発する。
私が部下に指示したのは、基本的に相手の席に行きフェイス・トゥ・フェイスで会議すること。距離が離れているなら電話をすること、である。相手の反応を聞きながらであれば、普通は「独り言の暴走」は起きない。
どうしてもEメールの場合は、必ず宛名を書くこと、である。リターン・メールだからと、宛名を書かないと、独り言が始まる。○○さん、と書くと、文体が変わるのである。意外なことに、いきなり本文に入るよりも決まりきった挨拶文を書くと、建設的雰囲気を作る絶大な効果があることに気が付く。
さて、ツイッターなるものがある。上記批判した通りの「独り言」を、世界中にまき散らすというツールである。そもそも何のために作られたものなのかを私は知らない。最近になって使い始めたため、その機能もよくわかっていない・・・。
当然、もともとは英語仕様である。
140字のアルファベットの制限というのは、本当に短い。2バイトの漢字を含む140字とは載せられる情報量に雲泥の差がある。「薬害」この2文字が英語で何文字で表記できるであろう?
したがって、タダで使わせてもらっておいてハッキリ言ってしまうが、ロクでもないツールである。何かを言いたい場合、事実認定、論理構成、ニュアンス表現なる要素があるわけだが、「そんなん糞。」という世界である。
どこぞの大統領も、根拠を示さず、勝手な結論だけをツイートし続ける。まるで、15秒コマーシャルのスポット大量購入による大衆扇動である。(そういえば、私もコマーシャルを作り、流す側にいた・・・。)
今の私は、冗舌文章タイプなのでさらにどうしても長くなる。だから、日本語140字でも全然足りず、こうしてブログに長々、徒然と書き、それをツイッターで紹介するスタンスを取っている。まあ一応、機能しているような感じがしている。ココで、本体となる論旨が時間に流されずにスタティックに存在しており、毎回同じようなことを書かずに済む。誤解を招かないように「本体」を追記したり、修正もできるのも便利だ。
ツイッターには、2チャンネルで闊歩した匿名性による無責任開放感も加わる。私もご覧のように変なペンネームでさしたる大きな顔はできないが、ツイッターは実名の方と匿名の方が入り混じった変わった世界だ。この点、実名が基本であるフェイスブックの方がお行儀がよいのは誰もがご存知であろう。
まあ、あえて私が指摘するほどのことではないが、そんなところだ。
追記、
ある方から、これではとても悲観的であるという趣旨のコメントをいただいた。
「被害者は永遠に一般人から理解されない」ということである。自分としては、「できるだけ礼儀正しく、客観的にわかるように主張すればよい」という程度の意味だったのだが、たしかにそうとも読める。
もっと考えたみた。
相模原やまゆり園での障害者殺傷事件からちょうど1年経ち、いくつかの報道があった。
その中にNHKの報道で、当時やまゆり園にいた障害者サバイバーの母親のインタビューがあった。以下のような趣旨で、私は説得力を感じた。
① 『事件前に、犯人は疲れた顔の親を見て、自分の計画の正当性を感じた』という報道があった。
② それは自分の顔だったのではないか、と思い非常に驚いた。
③ たしかに、その時は介護に疲れていたし、たいへんだった。
④ 『消極的な意味で』(障害の息子は)いなくなってしまった方がよい、と思うこともあった。
⑤ でも今は、心から息子をかわいいと思う。特に、笑っている時に。
⑥ 役に立っても、立たなくても、支え合うのが「普通の社会」ではないか。
⑦ できるだけ、障害の息子を買い物などに連れ出し、一般の方と触れるようにしている。
どうして説得力があるのかの考察である。(動画ほどの説得力は表現できていない。)
加害者と同じような気持ちが、親である自分にすら湧いたことを、一度認めているからだと私は思う。これは、殺人=悪い、不倫=悪い、という短絡的な人物批判のための論理が圧倒的な、今のネット社会においては、理解されがたく、危険な議論なのかも知れない。
だが、加害者も同じ人間であり、その動機と同様の発想なり感情は、正直なところ被害者にも存在しているというのは、議論の原点として説得力がある。なぜかというと、建前ではなく、本音だからである。それでも、社会はこうあるべきだ、ということを、苦悩の末にこれまた「正直に感じた」ところに、この母親の主張の説得力が存在している。
私は文学の端くれを担っているつもりであり、ドストエフスキーの「罪と罰」を前に、「老婆殺人は悪なので読むに価しない」という向きとは議論にならない。
そもそも、「勧善懲悪」などというものは、フィクションの中でしか存在しない。
ちまたの議論は、「誰が悪で、誰が善なのか」に終始している。今、政治を賑わしている、森友・加計学園問題も、「政治の私物化をしている官邸が悪だ。」と、「いやいや、利権を維持している獣医師が悪だ。」とに意見が分かれている。
どちらも、「悪を征伐する主体は善だ!」といわんばかりに。
実のところは、指摘された内容において、およその登場人物や組織は「悪」である。程度の問題でこそあれ、安倍政権は悪、文部科学省も悪、森友学園も悪、加計孝太郎も悪、農林水産省も悪、獣医師会も悪、近畿財務局も悪、財務省も悪なのである。
ついでに言ってしまえば、部数なり、視聴率のために報道をしているメディアも悪であり、いまだに動き出さない検察庁ですら悪の可能性がある。
これでは、まったくもって気の滅入る話だが、悪と悪の戦いや、ひしめき合いを我々一般庶民は観賞させられているわけだ。もはや、シリアの内戦状態のごとくである。
だが、シリアの内戦よりはマシな部分もあると願いたい。
ISほど、勧善懲悪ならぬ、「完・全・超・悪」な登場人物や組織はいないと信じたい。安倍ちゃんだって、理想像が多少異なるかもしれないが、国民により幸せになってもらいたいと願っていることは事実であろう。そのために、人知れず無私となって努力をしている姿も、時にあるであろう。
つまり、人間とは常に2面性を持っている。誰もが犯罪者の心と、社会奉仕者の心を持っている。どちらのキャラが立っているかは、場面によるし、時による。
急に話を戻す。難しいかもしれないが、わかっていただけるであろうか?
被害者は、「加害者の動機を一旦理解して、それでもこの状況は是正されるべき」、と主張する方が、「加害者は悪い、人間じゃない、悪魔だ、許せない」、と決めつけ、自分は「無垢な被害者であり、可哀そうな人間であり、善である」、と一方的に主張するよりも、正直であり、問題を深く掘り下げて理解しており、客観的であり、人間的であり、説得力があるようだ。
私は宗教を信じないが、キリスト教的な救済精神がベースにある、ドストエフスキーの影響は受けている。
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