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PKO日報問題から考える、『記録保管の意義。』

  • jeremmiemoonchild
  • 2017年7月21日
  • 読了時間: 3分

PKO日報問題で、稲田朋美防衛大臣が虚偽の答弁をしていた。

もう誰も驚かない。私がそもそも疑問に思うのは、稲田大臣がウソを言っていたということではなく、PKO活動なる歴史的で、物議をかもした活動を行った、その貴重な活動の日誌の保管期限が1年だとかいう話である。

米国政府の記録保管は凄まじい。

何十年経ってその秘密保持期間が過ぎると、たとえば戦時中のCIAの活動などまでが公開され、一般人が知ることができる。正しい歴史認識を行うことができるようになっている。

一方、日本では、現在進行形の問題について、役人トップが「破棄しました」などと堂々と国会で答弁し、平気な顔をしている。

この差は何か?

西洋人は立派な理念を持ち、日本人はそうではない・・・、そうなのか?

狭い体験かも知れないが、私の知るアメリカ人はおよそ過去を振り返ろうとしない。記録を取り続けるというような、地道な仕事を一切評価しない。すぐにアウト・オブ・ボックス(型にはまらない)解決策を見出そうとする。下手なくせに、アイデア一発、逆点勝負が大好きである。

私は食品メーカーにいたのだが、たとえば5年前に自社が発売した商品がなんだったのか、外資系にいるとわかりにくい。販売データベース上には商品名やコードは残っているが、たとえばパッケージそのものを網羅的には保管していない。担当者が古ければ、写真のデータがあるかもしれないという程度だ。

この点、実は日本のメーカーの方がよほどしっかりとしている。

5年前の自社製品のパッケージを見たければ、製缶会社などの日本の包材メーカーに電話すればよい。彼らは、自分たちが顧客のために製品化したパッケージの製版や実物をキチンとコレクションしており、必ず出てくる。

日本のメーカーはおそらく、自社製品の歴史的コレクションを行っている。世に出した製品は誇りであり、世の中に対して責任があり、忘れたり、消えてなくなってはならないと考える。

考えてみれば当たり前だ。

反省無くして、進歩はない。

事実をもみ消しては、反省すらできない。

それでは、この日米の行動様式の違いと、それが政治とビジネスで逆転する現象はなんなのか?

おそらくこうだ。長期的視点でモノを考える文化があれば、その組織は記録を取る。短期的視点が横行すれば、記録を取らなくなる。

日本の企業は基本的に長期的視点を持つという。だから、記録を取る。四半期ごとの財務指標と株価に追われるアメリカの企業は常に短期志向だ。だから、記録を取らない。今儲かればよい、今後儲かればよい、という発想のみに追い立てられている。

日本の政府や行政は、残念ながら長期的視点を持っていない。一見そうとは思えないが、アメリカ型の企業に近いマインド・セットを持っているようだ。その場限り、自己中心的、自己防衛的な文化が露呈している。その代表例のような忖度答弁をした官僚が、国税局のトップとなった。まちがいなく、これからも多くの記録が失われるであろう。

キチンと記録を取っていること、これはその組織の健全性のバロメーターである。

ジェレミー・ムーンチャイルド

追記、

言うまでもないが、今では文書は最初から電子化されている。

手書きや、タイプされたものを保管するのに比べ、格段にそのための場所やコストは少なくてすむ。私のような個人でさえ、何テラ・バイトもあるサーバーをいくつも持っているくらいだ。(音楽用だが。)

したがって、公の文書を一定期間で破棄する決まりの正当な目的が理解できない。PKO活動の日報は、永遠に取っておいてよいと思うのは私だけであろうか?

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