私は『LINEスタンプが嫌い』だ。
- jeremmiemoonchild
- 2018年4月5日
- 読了時間: 5分
すごいタイトルである。
いかなる政治的なメッセージよりも、多くの人の反感を買う可能性がある。今やほぼ全員が日常のコミュニケーションに使うスマートフォンのアプリ、LINEの大発明ともいえる人気機能を敵に回した。

実を言うと、スマートフォン嫌いの私も、つい最近LINEを初めて使ってみた。ASUSのタブレット、ZenPad を安く買い、格安SIMなるものを装着して、ついにモバイル・インターネットの世界に突入したのである。
とはいえ、私はほとんど家にいる。
最大の理由は、防災目的。大規模災害時には、「インターネットってえのは、NUROみたいな高速光回線でブンブンするものだっつーの。」という私の常日頃の主張、というか暴論が通用しなくなる可能性がある。おそらく、電話回線の方が復旧は速い。とりあえず、ZenPad で情報が取れるはず、ということだ。
それで、長女とLINE友達になり、少々の会話を試みたところ、速攻でスタンプが送られてきた。
「フウム。」これはどうしたものか?
そしてさっき、表題のようなタイトルを書いてみたわけだ。理由を羅列すると、山のようにある。
そもそも、言葉の代わりに絵を使うということは、唯一人間にだけ託された言語能力の否定である。賢そうな動物はたくさんいるし、感じることは人間と大差ないのではないかと思うこの頃だが、人間ほどの言語能力を持つ動物は他にいない。
大学で習った言語学の知識をひけらかすまでもなく、言語は複雑な構造を持ち、無限の表現が可能である。
しかしながら、「悲しい。」という気持ちを表すのに、ブタが泣いている絵を送るようになると、言語はもはや不要である。しかも、「いろいろな悲しさ」のために、「いろいろな悲しい表情のブタ」が用意されているようであれば、なおさらだ。
絵を指し示すだけなら、人間以外の賢そうな動物、ゾウでもカラスでもできるかもしれない。
「いちいち、そう事態を歪曲し、立腹するのは健康に良くないのではないか?」
「LINEではもちろん、言葉も使えるわけだし、単なる楽しい追加機能だよ。」
そうおっしゃる旨の方も多かろう。だが、私は自説にこだわる。
私は、以前より日本人の言語表現能力の衰退に危惧を抱いている。
小学生の三女が話しているのを聞くと、「学校で先生がそれをするとね、いつもみんなワーッとなって、そのあと、またこうワーッとなって、ワーッ、ワーッ、ワーッ、ってなっちゃう。」と手ぶりを交えて楽しそうに表現している感じである。
これではサッパリわからない。言語変換できなくなるというのは、まさにこういうことだ。
日本人はもともと、論理展開に弱い。
何が事実で、何が問題で、何が目的で、何が方法なのか、順序立てて話をするのが苦手である。よく言われるように単一民族、単一文化の弊害である。誰もが同じような経験があり、同じような問題意識を持っており、同じようなことをしたいと思い、同じような方法をよいと思っている、という幻想の上に立っているような社会なのだ。そこへ持ってきて、言語化されないLINEスタンプなどで表現したならば、ますます論理はなくなる。
ヤダー!と必死に首を振るブタ。
サイテー!と軽蔑の視線を送るブタ。
これでは、どのような理由でそれが嫌なのか、何を根拠に人を非難しているのか、まったくわからない。特に後者は危険だ。「何が悪い」ではなく、「誰が悪い」に終始すると、議論は深まらず、解決の方向性など微塵もなく、あるとすれば犯人の抹殺であり安易に差別的発言へとつながる。「ようこそ、2チャンネルの世界へ、」である。
言語無くして、論理無しなのである。真のコミュニケーションは深まらない。あるのは、聞き手への同調圧力のみだ。
今や中学生あたりから、LINEを使っているらしい。もうどうにもこうにも、できあがってしまった大人が、ユーモアを補う目的で使うのとは異なり、こんなコミュニケーションをしていたら、将来ちゃんとした文章が書けなくなる可能性が高い。
以前から、絵文字の使用や、(笑)などの文末への付加が頻繁に使われるようになった。主な目的は、書いた文章が自分の意図とは裏腹に、読みようによっては敵対的だったり、命令調にも読めるので、その誤解を解くためである。
「~をお願いできませんか?」
この一言が、対面であればなんら問題を起こさないのであるが、メールだと上から目線とも見えるからだ。これは理由を理解しなくてはならない。文字は音声としての抑揚がないし、対面における表情によるニュアンスを伝えていないからである。誤解を避けるために私は必ずこう書く。
「お忙しいところ恐縮ですが、~をお願いできれば光栄です。」
そんなのメンドクセーから、「~をお願いできませんか?(^-^)」なのだろうが、私には相当にマヌケに写る。
LINEスタンプはコミュニケーションの補佐ツールなのだろうが、私はかえって感情は伝わらないと思う。「つまらない。」という感情を伝えるのに、ぽつねんとした顔のブタを送っても、受け手は送り手の顔に想いをはせず、ブタに気を取られる。よくできた、工夫を凝らされたブタであればあるほど、そうなる。
いいな、このスタンプどこで手に入れたのだろう?有料か?などと、会話の内容とはなんら関係のないことが気になる。また、送り手も良いスタンプを自慢している節がないとは限らない。
そもそも、いくら種類が多く用意されていようと、その人のその時の感情が用意されたブタの絵で表現できるという発想そのものが非人間的だ。人間の会話はパターン化されるべきではない。
「文字を書くのより、早いし楽。」という意見も散見される。
言語道断である。コミュニケーションで手間を省くということは、およそ相手を大事にしていないということと、等価である。友人のためであれば、時間も金も惜しまないのが本来の姿ではなかったのか?
そんな時間もカネもない、ということになると、「そもそも、友達が多すぎるのではないか?」「そもそも、それは友達なのか?」という、たくさんの「そもそも疑問」が次から次へと湧き上がる。
最後に、日本人は何ごとにも笑ってごまかす文化、悪い癖がある。
明らかに、LINEスタンプはそれを助長している。ブタの絵を見て笑っていても、問題は一向に解決をしない。自分の人生をマンガだと卑下する必要もないし、マンガの中に住んでいると、思い込む必要もない。
LINEスタンプについて、容赦なくボロボロに書いてしまったが、孤高の私はそれを正しいと信じる。
ジェレミー・ムーンチャイルド
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