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『下手な考え休みにならず』-森田療法の解釈

  • jeremmiemoonchild
  • 2019年6月30日
  • 読了時間: 4分

森田療法における、「あるがまま」について解釈を思い付いた。

信頼できるリーダーのもとで農作業を中心とした集団生活を行い、神経症を治していくという日本独自の精神療法である森田療法は、薬物一辺倒の現在の精神科診療への対峙としてわかりやすいものだ。私も最近、ガーデニングなどに熱心になり、屋外作業に対する森田正馬の先見性を実感している。多くの方が興味を持ち、森田療法に関する本を読んだことだろう。

しかし、症状に逆らうことをしない「あるがまま」の教えについては、腹に座った完全な納得には至らないのではないだろうか。仏教的な諦観に基づく感じがするし、そもそも症状を治したい患者は「症状がそのまま」では困る。

「問題があれば自分で考えて解決する」

これが現代教育を受けた人間の基本姿勢だ。頭が正常に機能しているのであれば、正しい。考えて行動し、試行錯誤して責任を持って解決すべきである。

しかしながら、心の病の患者は、まず体が動かなくなる。疲労感が強かったり、筋肉痛がひどかったり、不安で心がしぼんだりして、体は動かないことを選択し、命ずる。

適者生存によりDNAが構築された自然界において、文字通り「動物」でありながら、動かないということには数々のメリットがある。エネルギー消費を抑え、悪い時が過ぎるのを待ち、捕食者に見つかる可能性を下げ、治癒に時間をかける。

たとえば、うつ病の急性期には、とくに体に異変があるわけではないのに、トイレと食事以外には動けなかったという人がほとんどだ。

ところが、心の病とは不思議なもので、なぜか思考活動は続いてしまう。

尿意をもよおすと、トイレに行くにはまず体を起こし、スリッパを履き、トイレまで歩き、ドアを開け、座って用を足す、というようなことをしなければならないと朦朧とした頭で考えてばかりいる。こんなことはふつうは考えもしないことだが、困難に直面すると脳は分析をはじめ、これでも「問題解決を図っている」のである。つまり、「なんとか体は起こせるかな?スリッパは履けるだろう、まあ、10歩なら歩けるし、そこまでいけば座るだけだ。したがって、これらのステップで一番困難なのは体を起こす段階だな、やるか。」という具合で病人は力を込めてよろよろとベッドを出るのである。

急性期を過ぎても、症状は安定しないし、ことの本質は変わらない。

気分がすぐれず、体が動きにくい状態が頻繁に訪れる。そんな時、どうして症状が悪くなったのかを考え始める。原因がわかれば解決できるはずだからだ。

まず思い付くのが天気である。寒い、暑い、ジメジメする、服装の対応が悪かったなどなど。そのあと、食事のせいにする。なにを食べたあと悪くなった。栄養素が足りないのではないか。

そもそも発症の経緯について思いを馳せる人も多いだろう。あの会社はひどかった、あの事件は嫌だった、どうすれば避けられただろうか、などなど。

社会についても罵る。政治の不正は許せん。このままでは世の中どんどん悪くなっていく。株価も下がり、経済破綻も起きるだろう。

不安と言えば、天変地異だ。南海トラフ巨大地震、いや富士山の噴火すら、もう起きてもおかしくない。そんな時、あー元気であれば海外にとんずらだが、この体たらくではなにも対応できない、家族も守れない。

とくに、体が動かないことに焦りが出るが、怒りはなぜかその大事な家族にさえ向かう。そもそも、もはや家族は自分を大事にしていない。怠け者と思っている節すらある。

おわかりだろうか?

発端は身体的、精神的な症状であったものの、まったくもって解決にはほど遠い余計なことに考えを馳せ、不安や怒りを自ら助長させ、当然の結果として、症状も息絶え絶えの状態にまではるかに悪化させている。

こんなことであれば、むしろ最初の症状を「しかたのないもの」として受け入れ、余計なことは考えない方がよい。それが、森田療法における「あるがまま」の意味ではないだろうか?

「下手な考え休みに似たり」とは、作業を続けていた方が良かった時の言葉だろう。そもそもなんら建設的な作業ができない体調であれば、もっと目標を下げて

「下手な考え休みにならず」

ということを肝に銘じ、森田正馬のいう「あるがまま」を受け入れ、周囲に感謝の念を抱いた方が得策である。

ジェレミー・ムーンチャイルド

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